10月13日(金曜日) 晴れ 昨夜夜中まで一緒に映画を観たオリーには、「おまえの次のショットはまだセットアップを始めてさえいないから、十一時頃に出てくりゃいいからな」と言っておいたので、彼女は遅出。アニメには集中力が必要されるので、体を休ませて万全な体調で撮影に臨むのもアニメーターの重要な仕事の一つだとぼくは考えます。ぼくはもちろん通常出勤。さすがにきつかったす。 仕事後、もう倒れそうなほど眠いのに、ボリウッド映画祭で今晩観に行くつもりにしていた “Water” (2005年 カナダ・インド 監督ディーパ・メータ)のHPを観たら、あのサルマン・ラシュディが絶賛しているし、映画祭プログラムの紹介文には「ガンジーが台頭を始めた三十年代のインドを舞台に、未亡人たちの苦しい生活を描く」とあったので、これはサタジット・ライの“大地のうた”三部作のような詩的で美しい社会派映画なのではないかという予感がしたため、無理して観に行くことに。インド映画といえば、最近歌と踊りのものばかり観ているし。 “Water” は結婚してカナダに渡ったインドの女性監督ディーパ・メータが撮った “Earth”、“Fire” に続く、三部作の最終編。正確にはボリウッド映画ではないのですが、子供の頃からボリウッド映画を観て育ったに違いない映画監督が国外に移住して作った作品だから、今年の映画祭のテーマ〔グローバリゼーション〕に合うということで上映が決まったと、上映前に主催者側から説明がありました。 親が決めた婚約者が死んだため、二千年前のマヌ法典の掟に従い、残る人生すべてを未亡人として生きることとなった九歳の少女チューヤが主人公。彼女は未亡人たちが集まって共同生活を営む家に送られます……。(左上の写真は男の子に見えますが、実は主人公の少女チューヤ。未亡人は髪の毛を刈られてしまうのです) 予想通り美しい映像・音楽を持つ詩的な社会派映画でしたが、眠気には勝てず、始まって十分ぐらいの段階でウトウト。その後、目は覚ましましたが、「もう適当に最後まで観ればいいや」と半分投げた感じで観ていたのです。 真面目な社会派映画なのに、踊りこそはないものの歌で登場人物の感情を表現するというインド映画の手法が用いられているあたり、なんとなく微笑ましかったりして。 ところが、チューヤ同様子供の頃から未亡人の家にいる若く美しい娘カーリャニが、法律を学びガンジーの運動に傾倒している上流家庭の息子にみそめられ、様々な障害を乗り越え、あと一歩で結婚にたどり着くというところで、結構ジーンときてしまったのです。カーリャニを演じるリサ・レイ(右写真)がとても美しかったこともありますが、「悲惨で救いのない映画にこんなハッピーエンドが待っていたのか」と驚き、「安っぽいハッピーエンドと馬鹿にされてもいいじゃないか。おれは人が幸せになる映画を見たいよ」と思ったのです。 なのに、やっぱり社会派映画ですから、この恋路はうまく行かず、ガッカリ。 映画のラスト、チューヤに優しかった未亡人の一人ディディが彼女を連れ、長い獄中生活から釈放されたガンジーが、汽車旅行の途中五分だけ駅に止まって民衆にするスピーチを聴きに来ます。そこでガンジーは「自分はこれまで神の真実を信じてきた。しかし今は真実こそ神であると信じるようになった」と訴えます。そして映画は感動の結末を迎えるのです。 この結末は少なくともぼくには全く予想がついておらず、観ていて「あっ、あっ、あーっ!」と驚くと同時に、涙が溢れてしまいました。ここしばらく感動的な映画を観ていなかったので、映画を観て泣いたのは久しぶり。(先週観たフランソワ・オゾンの「ぼくを葬る」も割とよかったけど、泣くとこまではいきませんでしたから) というか、映画の途中で部分部分泣けるのではなく、トータルとして最後で泣ける作品を観たのは久しぶりという気がします。 ガンジーの運動が動き始めた三十年代を舞台にしているのはこういう理由だったのか、そしてインドの人たちにとってはガンジーってこれほど大きな存在だったのか、ということがこのラストでよくわかりました。 ちょっと寝てしまったけど、この映画は観てよかったなぁ。帰り道自転車をこぎながら、「しかし、あのラストには感動したなぁ」と何度も呟いてました。 この映画を日本に入れる配給会社はないものか。もしなんらかの形で観る機会がありましたら、ディーパ・メータの “Water”、お見逃しなく。女性が必見なのはもちろん、男性にもオススメです。
by yaliusat
| 2006-10-14 20:13
| 映画
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